2010年04月30日

田中の丸また1

茨木のねじりまんぼを地元では「田中の丸また」と呼ぶという解説があった。

事実、阪急茨木駅の茨木紹介の写真に「田中の丸また」と書かれている。田中の丸また=ねじりまんぼは明治9年に開通した東海道線(阪神間)に建設されている。

■牛車運搬
以前から気になっていたのは、鉄道や煉瓦のアーチを造る材料をどうしたかということだ。

汽車本体にしろレールにしろ英国製であり、車掌も英国人であった。

英国から来た。すると、阪神側でまず開通したのだから、神戸で陸揚げしたわけだ。

阪神側というより経路的には神戸→大阪。
大阪→京都。

運搬経路的には「神阪」、「阪京」となり「阪神」でもなく「京阪」でもないと考えると面白い。

船からどのようにして汽車を降ろしたかは別問題として、神戸から鉄路でレールを運ぶ。それは想像できる。

桂で煉瓦工場を作った。

これは川舟を使い牛馬で運搬したのだろうか。

「百年前の日本」(モース・コレクション/写真編 構成小西四郎、岡秀行)に1890年撮影(明治23年)の「牛車」というのがあった。
usi.JPG

それでは路盤となる砕石や土はどこから持ってきたのだろうか。
高さ3〜5メートルはある堤防のような土砂は半端な量ではない。

牛馬で産地から運搬もありえないし、やはり川舟を使ったのだろうか?

今でも茨木北部は砕石場が多くある。
安威川や茨木川の流れに沿って川舟で運び、そこから牛馬で運搬したのだろうか。

■舟運搬

ibarakimap.bmp

地図は明治18年測量とある。(陸地測量部)
@:茨木駅 A:茨木神社 B:高橋 C:総持寺近辺(実際はやや北)D:茨木高校が建つ位置 E:茨木工科高校が建つ位置
矢印:ねじりまんぼ

茨木村は茨木川と安威川に挟まれ、北はねじりまんぼの田中から南は現在の茨木高校あたりまでで、茨木城跡を中心にした小さな村でそれ以外は殆どが水田である。
ねじりまんぼの道は「茨木街道支線」と呼ばれた。
この街道が西国街道を横切り安威・大岩方面に抜ける。

茨木神社から西に延びる道路は今の市役所前のメインストリート(茨木街道)で茨木駅に一直線に通じているが、付近は水田ばかりだ。

この道は北に曲がり今の茨木工科高校沿いに進み名神茨木インターの西側を抜け西国街道を渡り亀岡街道となる。

江戸時代の「摂津名所図絵」に「茨木明神社」(いばらきみょうじんやしろ)という絵があった。「摂津名所図会」は寛政8年から10年(1796〜98)に刊行。ねじりまんぼより約80年前。

茨木神社の横を流れる茨木川と高橋。(高橋という橋の名前)
よく見れば数隻の舟。
江戸時代、舟による輸送ができる水量が茨木川にあったようだ。
(川幅もいまより狭く、水位があった)
 
zue.JPG
 わかりやすいように一部着色
赤い鳥居とその奥の社(赤と緑)。手前に高橋と茨木川。
神社の奥が茨木村の集落。

明治の地図と様相は合っている。

案外、北摂の山(亀岡街道の山)の土砂を川舟で運搬し鉄道の路盤にあてていたのかもしれない。


百年前の日本−モースコレクション(写真編)

百年前の日本−モースコレクション(写真編)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/01/20
  • メディア: 大型本



posted by たけちゃん at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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